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「そのような」とは「どのような」?「such」の一語はどう訳すか

人の主義主張はさまざま。他人から言われることが、自分の考える姿と食い違うこともあります。

今回紹介する原文の発言者もそんな一人。

主義主張にまつわる言葉を読むには、相応の読み取る努力が必要なもの。今は人間にしかできないタスクですが、未来になればどうなるか?

今回の原文はこちら。

People say I’m such a pessimist, but I always was. It never stopped me from doing what I had to do. I would say I’m a realist.

これはアメリカのフォークシンガー、ジョーン・バエズの言葉です。

彼女は政治に抗議するメッセージを歌に乗せるプロテストソングで有名です。マーティン・ルーサー・キングJr.の公民権運動に携わったのを皮切りに、反戦・人権運動を続けてきました。歌手として高い評価を受けてからも現在まで熱心な活動を続けています。

人種差別や人権侵害、そして戦争に目を向けることは、いわば社会の暗い側面に目を向けること。それらを直視し続け、状況を変えようと動いてきた彼女の姿勢は、人によっては悲観的に映ったことでしょう。

心の中にある悲観主義を自覚しながら、それでも行動を続けた自分の人生を振り返ることで、自分はどちらかといえば現実主義者なのだと返す、そういう一言です。

では、Google翻訳の訳文を見てみましょう。

人々は私がそのような悲観主義者だと言うが、私はいつもそうだった。 それは、私がやらなければならないことをやめさせたことは決してありません。 私は現実主義者だと言います。

次からは訳文のポイントを見ていきます。

such a

訳文を見ると「そのような」と訳されています。辞書ではこの意味が一番に出てくるし、実際にこう訳される場合も多いです。

しかし一体どのような悲観主義者なのでしょう?

suchという言葉を「そのような」の意味で使うときはたいていの場合、それがどの程度なのか、どのような状態なのかの基準が一緒に出てきます

例えば「そのような短時間(such a short time)」という時には、その前後に1分だとか10秒だとか、ある程度具体的な時間が出てくるはず。「そのような人(such a person)」という時は、まずどんな人物であるかの描写がなされ、その人物を指す意味で使われるのです。

この文章には程度の基準になる言葉が出てこないので、「そのような」とするのは不自然に響きます。「such」には強調表現の意味もあるので、この文章ではそちらの解釈をするのがいいでしょう。すると訳文は、「たいへんな悲観主義者」とでもしておくのがいいでしょう。

It never stopped me~

この部分の訳は、「それは~やめさせたことは決してありません」となっています。「it」で始まる文には多いことですが、日本語に訳すると英文のテイストが残りすぎてぎこちない形になっています。

なめらかな日本語にこだわらなければ、この訳で問題ないとも言えるでしょう。しかし私は気になります。というわけで、これをできるだけ自然な表現に組み替えてみましょう。

まず主語の「it」が指しているのは前の文にあった「pessimist」、つまり「悲観主義」です。一文目で言われているのは、他者から常に悲観主義者だと言われ続け、事実そうであったということ。それを受けての「it」となります。

この「it」すなわち悲観主義が「すべきことを行うことを止めなかった(never stopped me from doing what I had to)」という文の中には、行動の主体が2つあります。つまり主語になっている「it(悲観主義)」ともう一つ、すべきことを行う「わたし」が隠れているのです

つまりこの文は、悲観主義が「わたし」に作用して、「わたし」に行動をやめさせるという風に分解できるのです。すると、動作の主体を「わたし」にすることもできるのでは?

「わたし」を主語にしてこの文を再構成してみましょう。まずはざっくりと「わたしはすべきことを行うのをけして止めなかった」とすれば、だいたいの意味は保てているはず。ここに「it」すなわち「悲観主義」を絡めるにはもう一工夫必要でしょう。「悲観主義」と「わたし」の関係性はどうなっているのでしょう?

ここでの「悲観主義」は「わたし」のあり方、あるいは状態であるといえます。ということは、「わたしは悲観主義である」と書いてみれば、両者の関係を表現できるでしょう

2つの文をつなげてみましょう。「わたしは悲観主義だ」そして「わたしはすべきことを行うことをけしてやめなかった」の2つのパーツがあれば、この2文目の意味をほぼもれなく表現できるはず。ここから少しずつ形を整えていけば、例えば「わたしは悲観主義者だが、わたしはすべきことを行うことをけしてやめなかった」や、「わたしは悲観主義者だが、自分のすべきことはずっと続けてきた」というような表現ができるでしょう。

I would say~

ここの訳は「私は現実主義者だと言います」となっています。悪くない訳ですが、「would」の微妙なニュアンスを反映させればもっとよくなるでしょう。

ここの「would」には仮定に近いニュアンスが含まれている点に注意してください。これまでの部分では他人から悲観主義者と呼ばれ続けてきた事実と、自分自身が悲観主義者であると認めつつも行動を止めたことはないという自らの歩みを語っています。最後に語るこの一文は、ならば自分は悲観主義者ではない何か別のものだから、私がみずからを分類するとしたらこう呼ぶだろう――という一言なのです

なので、「私なら自分を現実主義者と呼ぶ」というように、「もし自分が自分を評したなら」というニュアンスが伝わるような訳語がしっくりくるでしょう。

時代ごとの社会のありかたを歌ったジョーン・バエズの歌は、未来に歌い継がれてずっと残っていくでしょう。しかし、歌詞そのものは変わらなくともその解釈は変わっていきます。

彼女の歌も、彼女の言葉も、後の世紀には今とは違う翻訳で私たちに知られるのでしょう。その時、今とは考えの違う人間と、今よりも発展した機械との間で歌詞の解釈がどう変わるのか。見てみたい気がしますが、そこまで人が変化して、そこまで機械が進歩する日が来るまで生きていられるのかがわかりません。

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